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●淡河疎水
御坂のサイホン
淡河(おうご)疎水
ストレス爆発な平日を過ごし、週末を迎えます。
落書き伝言板でみなと神戸さんにお教え頂いた「淡河疏水」をが気になって、見に行くことにします。おさんぽなのでBD-1Cを担いで部屋を出ます。三宮まで阪神電車で輪行します。神戸市営地下鉄に乗り換えて西神中央まで。Uラインカードの残高がだいぶ残っています。地下鉄車内でrx1950を使います。TomboにUKSipで書き込みます。
山田疎水
西神中央駅で下車、自転車を組み立てます。
ワイン城への道をたどります。左折して、右折。北東方向、淡河方面を目指します。
押部谷を過ぎ、坂を上ります。笠松峠への上り坂の途中に、笠松中橋という小さな橋があります。橋には「山田疎水」の銘があります。
山田川疎水の請願は、内務省から派遣された技師が調査したところ、地形が険しくて岩質が悪いため、淡河川に水源を変更して淡河疎水が出来、淡河疎水によって田が増え再び水不足になり、この山田疎水も大正8年にかけて通されたようです。
サイホン眼鏡橋
峠を越え、先週と同じ道に入り、御坂神社の交差点を今週は逆の左に曲がり、御坂のサイホン到着です。
淡河疎水工事が明治21年から24年にかけて施工されたとき、山から志染川を横断して向かいの山に導水するために造られたそうです。
サイホンの設計は英陸軍少将ヘンリー・スペンサー・パーマーによるものだそうです。
穏やかな川面にかかる眼鏡橋を渡ります。渡り切ってふと振り返ると、黒く太い管が山頂からジェットコースターのように下りてきています。うわっ。
くるりと前を見ると、向かいの山の急斜面を管が昇っています。す、すごいなこれは。
管まで行きます。直径1mくらいあるでしょうか。うーん。思わずサイホン管の横の坂道を自転車で登り始めます。水が登れてBD-1Cで登れないはずがない!…登れませんでした。十数mほどで挫折、下車して押して歩きます。押して歩いても苦しい急坂です。
登り切って振り返り、感動します。よくもこんなことやろうと思ったな。ここを水が通ると言われても信じられないところです。
座って対岸の山を眺めると、たしかにこちら側より高いです。理屈は分かるけれど、こりゃすごいわ。
眼鏡橋を河原から眺めた後、御坂神社にお参りしてから、志染の石室を見に行きます。
志染(しじみ)の石室
志染の石室に移動です。
二皇子が隠れ住んだとの伝説があります。金色に光るひかり藻が繁殖する水をたたえた洞窟です。飛鳥時代の二皇子とは、後の顕宗天皇と仁賢天皇です。日本書紀によると幼少の頃、政変の難を逃れて隠れたそうです。
窟屋の金水は本当に金色になっていました。
呉錦堂池
志染から、一本西の道を南西に戻ります。やはり一山越えるので、延々上り坂が続きます。この山を疎水は越えているそうです。下りに転じ、関西国際大学に出ます。緑が丘駅を横切り、広野ゴルフクラブを回りこむように進むと、以前一度走ったことのある神出山田自転車道に入ります。大きな池に出ます。呉錦堂池です。
碑文によると、中国人で日本に帰化した貿易商呉錦堂氏が対象六年に築造した池だそうです。
呉錦堂氏は1855年中国浙江省に生まれ明治18年31歳のときに日本に渡り、神戸で行商から身を起こし日中貿易を行い大実業家となたそうです。明治37年には日本に帰化し、凶作年には難民を助けたり貧しい子供を学校へやったりし、数々の表彰を受け、大正10年には紺綬章を受章しています。
ちょうどその頃神出岩岡地区に山田川疎水がひかれ、それを受けて明治44年にはこの下流にある現在の西区神出町小束野の山林を開墾して水田60ヘクタールを開き小束野池も築造したそうです。
呉錦堂池は以前は宮ヶ谷池と呼ばれていましたが、小束野地区では呉錦堂氏に深く感謝して、昭和32年に地区の中心に記念碑を建立して功績を称え、呉錦堂池と改称することになったそうです。
今の総ブロックの池は平成4年から8年に県営事業で大改修されたものです。
老の口分水所
印南野台地に入ると何度も疎水は分水所で分かれていきます。神出山田自転車道の終点近くにあるのが老の口分水所です。
淡河川、山田川疎水の説明があります。引用すると、
播州平野から東に連なる印南野台地の東端に神出町、岩岡町は位置しています。この地域は、江戸時代以降、開墾が進められましたが、地形的に台地のため水に乏しい地域でした。そのため、遠く離れた北区の山田川から水を引くことが1771年(明和8年)に計画されましたが、実現しませんでした。
その後、1888年(明治21年)加古郡(現在の稲美町一帯)の地域が淡河からの疎水事業を起こし、1891年(明治24年)完成しましたが、開田が進んだため、第2の疎水(山田川疎水)が計画され、神出町、岩岡町等がこの事業に加わり、1911年(明治44年)から8年をかけ1918年(大正8年)に完成しました。
とのことです。
これらの事業により、この地域は見渡す限りの美田になっています、と結ばれています。
神出山田自転車道を初めて走ったときは、ただアップダウンの激しい自転車道だと驚きました。自転車道が途中から下りの階段になっていたり、えらいきつい坂を登らされたりと、ヘンな自転車道だと思いました。
台地だから激しいアップダウンがあるのでしょう。そこに疎水を通したわけです。自転車道は疎水と戯れるように続いていたのです。京都の琵琶湖疎水も無理して通した感がありましたが、淡河疎水も明治時代にサイホンのような海外の未知のテクノロジーを使って通しています。三大疎水と言っても、淡河疎水は地元民が自費で(国庫金の貸与により)造ろうとしたところが、国策による琵琶湖疎水や安積疎水と異なるところだそうです。隧道があまりに難工事だったこと、豪雨で被害が出たことから、最後は県営事業となり、無事竣工しました。淡河疎水によりこの地方の開田が進み、次の山田疎水につながりました。
ゴール
神出山田自転車道終点に着きました。
国道を少し南下してから左折し、東側の台地、西神工業団地に入ります。松下電器産業の前を通り、西神中央駅へと走ります。きょうはめずらしく同じ駅に戻る、スタートとゴールが同じコースでした。
今日のルート
ハンディGPS「etrex VISTA 日本語版」のトラックデータ(trk60121.trk trk60121.zip 10,895bytes)をカシミール3Dで表示し、注記したものです。
まあ、イラストマップのようなものなので、正確な道や細部は、別途正確な地図をご参照ください。
距離は36.0km、移動時間2h18m、停止時間1h34m、最高速度45.4km/h、移動平均速度は15.6km/h、全体平均速度9.3km/h、総上昇量553mでした。
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文市(あやち)=青野宣昭