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2005/04/25 朽木の隠れ里

輪行写真
Link:2005/04/25 11尿酸値
Link:2005/04/25 12湖西線
Link:2005/04/25 13安曇川
Link:2005/04/25 13朽木陣屋跡
Link:2005/04/25 14秀隣寺庭園
Link:2005/04/25 15興聖寺
Link:2005/04/25 16朽木街道
Link:2005/04/25 17花折峠
Link:2005/04/25 18輪行


2005/04/25 11尿酸値

薬が切れる時期なので病院へ行きました。先月の採血結果、尿酸値は9.2でした。中性脂肪も高いとのこと。血圧等は正常。今回も薬の効果を見るために採血、現在服用しているのは(たしか尿酸生成抑制型の薬)ザイロリック錠です。合わせて胃が荒れないようコランチル顆粒も二袋ずつ飲むよう出してくれています。
病院に行くのはさくさく終わっているため、せっかく休みをとった今日は一走りすることにします。切らしてしまっていた痛み止めの薬も出してもらえたのでいざとなっても安心です。
昨日はあまりに距離が短く走り足りません。淡路島とは言わないまでも、福知山から城崎まで70kmも走ったらきっと気持ち良いでしょう。遠出をするには時間が遅いので、近江にします。
甲子園口から輪行。新快速で東上し湖西線へと行くことにします。今日JR宝塚線は事故でストップしているようです。掲示や放送で盛んにJR宝塚線の事故を案内しています。尼崎からの乗客は振替輸送で大阪に行くのでしょうか。事故で影響が出て、神戸線も一部遅れがある模様です。
これが大変悲惨な事故だというのは後で知りました。湖西線に乗り換えてから、SL-C3000のNetFrontでニュースサイトの写真を見て気持ち悪くなりました。タイミングによっては乗っていたかもしれない電車があんな風にひどいことになるとは。

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2005/04/25 12湖西線

A5504Tは一年間使って来て、電池がすっかりヘタレてしまっています。使っているとあっと言う間に電池マークが減って行きます。auショップに電池を買いに行ったら取り寄せになると言われ、auのサイトから注文しようとしたら品切れでした。この際機種変しようという気になっています。
さすがに湖西線でvodafone3Gはつらいです。3G表記が出ていても「ネットワーク圏外です。接続できません」になります。auに比べてエリアが狭いので仕方ありません。エリアは地図できちんと事前に情報公開しているので承知の上ということになるでしょう。エリア内で電波が弱いとかなり印象が悪いですけれど。
湖西線からうみ(琵琶湖)が眺められます。延々とうみは続きます。今日は安曇川駅で下車の予定です。

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2005/04/25 13安曇川

輪行写真
安曇川で下車、自転車を組み立てます。いつの間にか正午を回っています。駅前をうろうろしても店がありません。ぐるりと駅の反対に回っても、スーパーの中のマクドナルドくらいしかありません。スーパーのとなりの小判寿しで昼食を調達します。京都駅乗換が1分もなかったため駅弁も入手できませんでした。安曇川から山間に入って行って、朽木にはおそらくコンビニもないでしょうから食糧確保は重要です。
安曇川に沿って西へ進みます。今日の目的地は朽木谷です。桜もだいぶ散り、おだやかな春の日です。

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2005/04/25 13朽木陣屋跡

輪行写真
朽木に入ったようで、野尻に朽木陣屋の説明板が立っています。
朽木村は鎌倉時代前期より明治維新までの600年間、近江源氏佐々木氏の庶流である朽木氏によって領有されていたそうです。
江戸時代は幕府より交代寄合(準大名)に格付けられ9595石を安堵され、陣屋を構えたそうで、その跡が村民グランドや森林組合となっています。説明板のところの堀跡が往時を偲ぶ遺構のようです。


輪行写真
昭和56-7年の発掘調査では上層から江戸時代の建物跡、下層からは室町時代の遺物包含層を検出したそうです。安曇川と支流の北川が合流するこの地は、若狭や越前などと京都を結ぶ朽木街道に面し、西近江路の脇街道筋として古くから経済・文化の通路であったと同時に軍略上の要路でもあったようです。
安曇川で買った寿司で昼食とします。朽木は隠れ里と聞いていたのですけれど、安曇川の合流点でそれなりに広い平地があり、隠れ里にしては大きな里だという感じがします。琵琶湖からもそれほど遠く離れているわけでもないし、なんでここが隠れ里なのでしょうか。

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2005/04/25 14秀隣寺庭園

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道の駅新本陣に行き、トイレを借ります。朽木村れんげ堂のおかきやとち大福をゲット、補給します。道の駅の向かいにはローソンが出来ていました。


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興聖寺へと進みます。今日はここの散り椿が目当てです。丁度落ち出した椿の花が鮮やかです。
名勝旧秀隣寺庭園の説明板が立っています。享禄元年(1528年)に朽木稙綱が将軍足利義晴のために館を建てた際、築造されたそうです。池辺の石組や石橋などの意匠に同時期の地方武士の庭園より洗練されたところがあるそうです。慶長十一年(1606年)朽木宣綱が亡き妻のために寺とし秀隣寺と号したが、のち朽木村野尻へ移転し、その跡地へ興聖寺が建てられたそうです。
興聖寺の門からは、眼科に安曇川一帯を俯瞰でき、対岸の小椋栖山を仰げます。
興聖寺由来は鎌倉時代嘉禎三年(1237年)七月守護佐々木信綱が曹洞宗開祖道元禅師の勧奨によって建立、以来道元禅師を開闢とし、永平寺二世道光国師懷弉禅師を開山に拝請、永平寺の直末として、朽木の菩提所として現在に至るそうです。
室町幕府十二代将軍足利義晴が四年、十三代将軍義輝が五年を、争乱を逃れこの地で送ったそうです。


輪行写真
将軍が朽木館に滞在の報が各地に伝わり、京極・浅倉・浅井の各雄はせ参じ将軍の警備に従い、徒然なるままに、館前に庭園を献上されたと言われているそうです。細川高国の作と伝えられ、東山銀閣の作風に習ったそうです。
拝観受付で300円を払うよう立て看板があるので本堂右へ向かいます。

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2005/04/25 15興聖寺

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住職のお話では、興聖寺は元々川向こうにあったそうです。佐々木氏は足利尊氏と昵懇で千早赤坂城攻めでも足利尊氏傘下に入ったそうです。足利将軍が滞在することが多いのはそういった縁もあるそうです。
道元禅師が京都から通る時に泊まり、伏見の興聖寺の名前を使ってはどうかと言われ、興聖寺となったそうです。
重要文化財の仏様は、定朝一派の作。後一条天皇十一歳のとき藤原家から二十歳の娘を輿入れしたところ、生まれた皇子は髪の毛が真っ白な赤ちゃんだったため、藤原頼通が引き取り、安倍晴明が静かで川のそばがいいということで、頼通により朽木に隠されたそうです。この皇子の死後、霊を慰めるため藤原頼通が祀った三体のうち一体が今も残るこのお釈迦様だそうです。平等院鳳凰堂と同じくらいの頃の仏像になるそうです。
朽木に隠された白髪の皇子は、現在の興聖寺の川向こうに住まっていたそうです。その時に側仕えした二十名ほどは皇子の死後もこの山に住み、その集落は山を移りながらも今もあるそうです。


輪行写真
住職のお話に感銘を受け、仏像に手を合わせ、庭園に出ます。椿の花が池にたくさん落ちています。水は結構な勢いで流れ続けています。本堂側から続く細い流れは直角に曲がって庭園に進み、木の根の下から涌き出して池に注いでいます。なかなか見事な庭園です。

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2005/04/25 16朽木街道

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興聖寺を出て、南へ進路をとります。
この街道は、今から435年前元亀元年、季節はちょうど今頃の4月、織田信長が供数人だけ連れて走り落ちのびた道です。
信長は近江浅井長政に妹お市を嫁して姻戚を結び、大軍を起こし、家康にも三河から軍を出させて、越前浅倉氏を攻めます。敦賀が信長の圧倒的大軍で満ち、越前攻略は確実だと信長は考えていたようです。近江浅井氏が古くからの同盟浅倉氏に加勢し、織田に対して攻撃を開始した報が届いたとき、信長は相当に意外だったらしいです。浅井浅倉の結び付きとお市一人の結び付き、信長はなぜか同等に見て、浅井は中立を守ると信じていたようです。
数に勝る大軍を擁しながら背後の山がことごとく敵になったとき、信長は驚くべきことに目の前の戦いを捨て、大軍を捨て、秀吉などの部下を捨て、友軍の家康を捨て、逐電してしまいます。桶狭間の頃ならともかく、尾張を統一し、岐阜を併呑し、近畿をほぼ掌握し京都で活動して大軍を動かす将の立場です。ありえない、ありえない敵前逃亡です。
家康へ伝令も出さず、周りのものに言い置いただけで、軍の処置も指示せず、供数人だけでこの朽木街道を逃げ走ります。古くからの隠れ里らしく、朽木元綱は絶体絶命の信長を温かく迎えます。そうして信長は京都まで逃げ落ちるわけです。
危険な最前線木ノ芽峠に軍を置いた家康は、木下藤吉郎に教えてもらうまで大将信長が軍を捨て戦場から逃亡したのを知りませんでした。木下藤吉郎は信長が消えたことを素早く察知して悲惨な殿軍をかってでます。信長への信義厚い家康は一言の連絡もなしに捨てられたことをどう思ったでしょう。
そもそも信長は何を考え、どんな気持ちでこの朽木街道を京都へ逃げ疾ったのでしょうか。


輪行写真
朽木から花折峠まで、安曇川の上流に向かって、アップダウンがありながら上り基調の道をBD-1で走ります。向かい風で辛いです。二カ月間ろくに自転車に乗っていないだけで、体力も筋力もすっかり落ちています。腹がたぷたぷと揺れています。腿に痛みが出て、わずかな上りで失速してギアを落とさないと走れません。
興聖寺で住職の話に聞き入り、つい長居してしまったようで、朽木を出たのは16時を20分も過ぎていたでしょうか。京都まで41km、平地で体調が良ければ二時間強の距離ですけれど、今日はどれくらいかかることやら分かりません。
後の近江での信長の行動は苛烈で、修羅と言うより鬼としか言いようがありません。湖東三山に輪行@@したとき、あまりにひどい所業に声を失う思いでした。

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2005/04/25 17花折峠

輪行写真
花折トンネルにたどり着きました。花折峠の手前のトンネル三連続がきびしかったです。トンネルを使わずのんびり旧道を走れば良いのでしょうけれど、時間も体力も残り少ない感じなので最短路を抜けました。


輪行写真
花折トンネルから下りに転じます。そして途中越です。途中トンネルは有料で、自転車は市道を通ります。この市道が峠の逆でV字型の谷になっていて、勾配が結構急です。途中トンネル側でも9%なので、市道は十数%なのでしょう。途中トンネルからの道と合流し、切り通しまで上ると、ロードのチーム練習姿を見かけます。さっと下りて行ってしまい、すぐに視界から消えました。こちらとはスピードが違います。


輪行写真
ここからはひたすら下りです。走る走る。大原三千院の前でも止まらずにひたすら京都を目指して走ります。気持ち良い。腿が痛いですけれど、身体が自転車にようやく少し慣れたか、楽しいです。大原からは車通りが増えて、やや走りにくくなりますけれど、どんどん進んで京都市街に入って行きます。

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2005/04/25 18輪行

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四条河原町付近は自転車進入禁止なのを忘れて中心部へ入ってきてしまっているので、市役所前駅から地下鉄輪行することにします。

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今日のルート

ハンディGPS「etrex VISTA 日本語版」のトラックデータ(trk50425.trk trk50425.zip 13,065bytes)をカシミール3Dで表示し、注記したものです。
まあ、イラストマップのようなものなので、正確な道や細部は、別途正確な地図をご参照ください。
距離は62.6km、移動平均速度は18.1km/h、移動時間3h28m、停止時間2h23m、全体平均速度10.7km/h、最高速度37.9km/h、総上昇量624mでした。
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文市(あやち)=青野宣昭