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紅茶の歴史

中国のお茶の歴史と紅茶の誕生、インド・セイロンで紅茶が生産されるまで。


お茶の8割は紅茶

現在、世界の茶の生産の8割は紅茶です。
1985年の茶の収穫量は2,333(千トン)、そして緑茶の生産量は424(千トン)程度です。
日本では中国から伝わってきた緑茶が普及しており、紅茶の消費量は緑茶に遠く及びません。お茶のふるさと中国も緑茶の消費が中心です。
ところが、それ以外の地域、ヨーロッパやアメリカではお茶といえば紅茶で、特に、茶の輸入数量では圧倒的な国イギリスは紅茶の本場です。
いったい、どのようにしてイギリスで紅茶が隆盛を極めるようになったのでしょうか。


お茶のふるさと中国

チャの原産地といわれるのは中国雲南省を中心とし、西はインドのアッサムにも及ぶ広い地域です。
特に栽培種として世界最古の「茶樹王」が現存する西双版納(シーサンパンナ)[イ泰]族(タイ族)自治州は有名ですね。
茶葉の利用は、原産地の中国南部から東南アジア北部の山岳地帯に住む少数民族にはじまり、漢民族によって中国全土に広まっていったと思われます。
中国でのお茶の歴史をひもとくと、遠く神農伝説からはじまります。また、前漢の宣帝時代、紀元前59年の蜀の王褒の「僮約」の「荼烹(荼をにる)」「武陽買荼(武陽で荼を買う)」や、後魏(386〜534)の時代の農書「斉民要術」の「ささらで衝きたてて茗のあわだてのようにする」のように、茶についての記述ではないかといわれる文があります。
唐以前は、「荼」(ト・にがなのこと)の字を流用して表記されていました。他の植物と明確に区別した「茶」の字は唐の頃に出来、その頃には既に一般庶民に飲まれていたといわれます。

唐の中期に陸羽によって著わされた「茶経」がはじめての体系的な茶についての書物です。


唐代〜宋代の固形茶

『茶は南方の嘉木である』ではじまる「茶経」はお茶の書として最古(758年から760年の間)で、しかも起源、道具、製造、茶器、煮方、飲み方、歴史、産地を網羅した体系書です。

「茶経」によるとその頃のお茶は、[牛角]茶(番茶)、散茶(葉茶)、末茶(粉茶)、餅茶(蒸して臼でついて固めた固形茶)であったといいます。
「茶経」で主として論じているのは、このうち、高級茶の固形茶です。
この固形茶は、削って粉末にして飲むわけですが、宋代には多大な労力をかけて研膏茶、蝋面茶といわれる、香料を加えたりした高価な固形茶が作られ、闘茶(ちゃくらべ)に供せられました。そして、硬い固形茶表面に金で龍や鳳の装飾をほどこして宮廷に献上していました。これを龍鳳茶と呼びます。
明代に入り、明の太祖朱元璋が1391年に民の労力を省くために、この茶の貢納を禁じたことから、固形茶はしだいに廃れ、現代と同様の葉茶を煎じて飲む茶が中心になりました。


明代の煎茶

「茶経」の各論のような内容や、焼きなおしが続いていた茶書も、この明代の喫茶の変化を受けて、煎茶の方が本来の色と香りを保っていると記述する「茶疏」が許次[糸予]によって著わされるようになりました。
「茶疏」の『古今製法』に曰く、

古人の製茶では、龍団鳳餅が尚ばれ、香薬が雑ぜられていた。蔡君謨など諸侯は、みな茶の理に精通し、日頃常に闘茶をしていながら、ただ献上品の珍品を碾すって用いるだけで、新しい製品を工夫したとは聞かない。転運使が進献する第一講の「北苑試新」と名づける茶などは、雀舌の水芽で造られるもので、一[金夸]の値が四十万銭にもなるが、わずか数杯分にしかならない。なんと高価なことであろう。しかも水芽はまず水に浸して造るので、それだけで真味を失っているのに、そのうえ名香を和ぜるのであるから、ますますその気は奪われる。これでどうして佳い茶になるのか、理解に苦しむ。古の製法は、近時の製法が、摘んだ順にすぐ焙じていくから、香りも色もともに完全で、最も真味を保っているのに及ばない。

とあります。
明代の煎茶は、いわば現代の緑茶にそのままつながるものです。
また、明代には、烏龍茶などの半発酵茶など、今で言う様々な中国銘茶が生まれてきたものと推定されています。


「茶疏」

「茶疏」は今読んでも楽しめます。『飲時』(飲むのに良いとき)という項目を引用してみましょう。

心身ともにゆったりしたとき読書作詩に疲れたとき
気持ちが落ち着かないとき歌や曲を聴くとき
歌や曲が終わったとき門を閉じ世事を避けているとき
琴を弾き画を看るとき夜深く共に語るとき
明るい窓べ浄い几に向かうとき奥の部屋や阿閣にいるとき
客と主人が懇談しているとき佳客や小姫といるとき
友人を訪ねて帰って来たとき晴れて風の和やかなとき
薄ぐもりで小雨降るとき小橋に画舫を停めているとき
こんもりした林すらりとした竹薮が望めるとき 花卉や小鳥の世話をしているとき
蓮池の亭で涼をとっているとき中庭で香を[火主]いているとき
酒宴が果て人が散じたとき子供たちの学舎を覗いたとき
清幽な寺観を訪ねたとき名泉怪石に臨むとき

「茶疏」は1603年頃の著作といわれています。
中国・日本から海路はじめてヨーロッパにお茶が運ばれたのは、1610年頃といわれています。
陸路では、モンゴル、チベット、ペルシャからロシアにまで16世紀には伝わっていたと言いますが、ロシアで喫茶が普及していくのは1689年のネルチンスク条約、1727年のキャフタ条約による陸路の隊商貿易によって輸入が増えてからになります。
実際、陸路(いわゆるシルクロード経由で)イギリスへお茶が入ったとの記録はありません。


イギリスへはじめて入った頃のお茶

紅茶消費の中心のイギリスにお茶が最初に輸入されたのがいつか、ということですが、これは当時繁栄を誇ったオランダから輸入されました。
オランダ人が日本と中国からそれぞれお茶を買いつけてジャワ島のバンタムからオランダ船に積んで本国に送ったのが1610年頃で、オランダの連合東インド会社のアムステルダムのサロンで使われたようです。
1630年代の中頃から、オランダは近隣諸国のドイツ、フランス、イギリス等へもお茶を売るようになったようです。
つまり、中国からお茶を輸入し、ヨーロッパに広めたのはオランダです。この頃は、オランダの王侯・上流階級の間で飲まれていました。
オランダ人は苦いお茶に高価な砂糖を入れて飲んでいたようです。
また、茶碗から受け皿に移して、それを啜っていたといいます。
上流階級の女主人のもてなしとしてお茶は使われていたようです。
又、ミルクを入れる飲み方がはじまったのもこの頃(1655年〜1680年頃)ではないかと言われています。
最初、イギリスでは、オランダで喫茶の経験をしたイギリス貴族が飲んだ程度のようです。
むしろ、フランスへの普及が早かったようです。ただ、これは一部階級にとどまり、すぐに廃れていってしまいます。
1662年国王チャールズ2世のもとへ嫁いできたポルトガル王の娘キャサリン王妃が東洋趣味で、喫茶の風を宮廷にもたらしたことから、茶はイギリス宮廷の飲物となったといわれます。
イギリスでは、1651年の「航海条例」の制定により、イギリスへの茶の輸入は、すべてイギリス国籍の船によってのみ許可されることになり、オランダ海運業の締め出しを図りました。
この翌年からの英蘭戦争をきっかけに、イギリスはオランダから中国貿易の主導権を奪っていきます。


イギリスでのお茶の普及

1689年オレンジ公ウイリアム3世とメアリー女王の代になり、東インド会社が福建省の厦門と直接の交易をはじめ、イギリスでの東洋趣味が一気に高まり、上流階級の家庭でも中国の急須や茶碗を買い求め、茶を飲むようになっていきます。
18世紀初め、アン女王は大の美食家で、朝食に必ず茶を飲み、宮廷では茶会を楽しみ、一日中何度も茶を飲んだといいます。

当時のお茶は、紅茶ではなく緑茶・烏龍茶です。

1700年に東インド会社が中国からイギリスに運んだ積荷のお茶の内訳は、たとえば、安徽省の下級緑茶300梱と福建省の下級烏龍茶80梱であったりします。 
1720年頃には、女王にあやかって、銀のポットや中国製の陶磁器ののポットを使って、茶を客の目の前で淹れることが上流階級でのステータスシンボルとなり、客人がお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットであるとされるようになっていきます。
1720年頃には主として値段の安い粉緑茶が多く輸入され、イギリス人に飲まれており、茶の関税引き下げにより、中国からの輸入量は100万ポンドを超えるまでになりました。
その頃中国茶の輸入の独占権を得た、イギリスの東インド会社の中国茶輸入量は増え続け、1760年には東インド会社の輸入金額の40%を占めるようになります。
このときには、イギリスのお茶の消費量はすでに他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍に達していました。
18世紀後半には、イギリスにもスタッフォードシャーを中心に窯業がおこり、イギリス独自の陶磁器が大量生産できるようになります。


南洋航海中に紅茶ができた?

有名な俗説があります。

「中国からイギリスにお茶がインド洋を通って船で運ばれていく途中に、赤道を通過してくるため、湿度と温度が高くなり、発酵して紅茶になり、そのブラックティーはロンドンで歓迎された。これが紅茶のはじまり云々。」

これは間違いです。

紅茶の分類の際に不発酵茶と発酵茶について触れましたが、当時も緑茶は製造初期段階で釜炒りによって酸化酵素を完全に失活した状態にしており、船で赤道を越えるくらいで変質するのはありえないことでした。
緑茶と紅茶の違いは茶葉摘採直後の製造法で決定されるものです。


紅茶のはじまり

それでは、紅茶はどのようにして生まれたのでしょうか。
福建省武夷山の烏龍茶を進化させて、安徽省の祁門で紅茶が生まれたようです。

一説には、1784年に余干臣が宦官をやめて商人になり福建省から安徽省にやってきて、福建省の発酵茶「工夫茶」にならって東至県に工場を設立し、工夫茶にならって茶の製造を始めた。次の年には、祁門県(祁の偏は[示]です)に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった、といいます。
また一説には、1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させた、といいます。


イギリスに受け入れられた工夫紅茶

初期にイギリスにもたらされていた武夷の烏龍茶は、最下級のもので、高級茶用に摘み取ったあとの三番茶を輸出用に広東まで運んで略式の製茶工場で製茶したもので、品質の悪い安価な大衆向けの輸出品でした。
このため、最初は粉緑茶がイギリスでの喫茶の中心でした。
しかし、東インド会社の独占の裏で密輸業者が大量に輩出し、また、茶業者では輸入した緑茶に茶以外の植物や不純物を混ぜることが流行し、緑茶も決して質の良いものとは言えなくなっていました。
また、肉類主体の食生活には、烏龍茶の方が口の中の油脂分をさっぱりと流してくれるということも知られ、烏龍茶や烏龍茶の中でも発酵度合いの強いものにイギリスでの需要が向いていった頃でした。
もともと祁門は品質の良い緑茶の生産地ですが、祁門で生まれた質の良い工夫紅茶は、高値で取引され、イギリスでこの酸化発酵の度合いの強い工夫紅茶はすぐに広まりました。
紅茶の前身となった福建省の武夷茶が日乾式だったのに対し、祁門紅茶は焙製(籠に入れて炭火で熱して乾燥させる)になるなど、イギリスへの輸出をにらんで生産法を進歩させたものでした。
なお、「工夫(コングー)」とは、手間隙かけているという意味です。


イギリス独自の文化へ

イギリスでは産業革命が進行して、工業化社会が成立していく時代でした。
喫茶の習慣は、上流階級から、中産階級に普及し、労働者階級でもときには茶を飲めるようになっていきます。
昼間からアルコール飲料を飲むより、健康面でも、お茶を飲むことがすすめられました。
茶の飲み方も、薄めに淹れてストレートで飲む飲み方から、濃く淹れた茶に、ミルクと砂糖を加えて飲むように変化していきました。
西インド諸島での砂糖量産の成功によって、砂糖の価格が急低下する「砂糖革命」で値段の安くなった砂糖を、緑茶より香味の強い工夫茶に加えて飲む、という習慣が定着していったのです。
1790年頃には、イギリスで茶漉しが発明されます。
中国では今でも広く茶碗に直接葉を入れてお湯をさして飲んでいることは有名ですね。
19世紀に入る頃、イギリス独自の製法「ボーンチャイナ」の骨灰磁器が開発されます。
また、金属板に銀板を張り合わせて作った安価な銀の茶器も販売されるなど、イギリスでの独自の茶器が製作され、普及していきます。
ここに、イギリスでの喫茶は、中国製の茶器の利用だけにあきたらず、独自の茶道具を開発して、独自の文化として発展していくことになるのです。


インドでの紅茶生産

インドでの紅茶生産は、イギリス帝国主義の下に行われました。
1823年、植物学者のロバート・ブルース大尉が、インドのアッサムで野生のチャの樹を発見しました。
イギリス帝国が必要とする紅茶を中国以外の土地で栽培、自給し、他国へも輸出しようとして、1838年には、インド総督ウイリアム・ベンティンク卿の下「茶業委員会」が設置され、アッサム地方でのチャの栽培と製茶が研究されはじめました。
中国から種子や苗、労働者を送り、調査・実験が行われ、1839年、最初のアッサム紅茶8ケースがロンドンで競売されました。
これをきっかけに、イギリス人たちはアッサムでの製茶事業にのりだしました。
プランテーションによる、機械化され安定した品質の紅茶は、改良・工夫を重ねた結果、色・香りとも強く安価で高品質の紅茶となって、小規模生産の中国紅茶を駆逐していってしまいました。
また、中国種に比べ、アッサム種はタンニンが多く、タンニンの酸化によってつくられる発酵茶の紅茶には適しているものでした。
インドでの紅茶製造は発展し、東パキスタン、セイロン島へもひろがっていきました。
また、オランダの植民地インドネシアでも、1870年代に入ってからプランテーションが開発され、ジャワ島での紅茶生産もインドやセイロンに次ぐものになりました。


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文市(あやち)=青野宣昭